8:50 → 「奥千本口バス停」到着。金峯神社参拝、義経隠れ塔、西行庵を巡る。
「はい到着、奥千本口です。
帰りもバスに乗ってもらったら私らは儲かるけど、
せっかくやから下まで自分の足で歩いて帰って下さいや〜。」と、
バスの運転手さんが送り出してくれます。
バス停からすぐ目の前に広がるのは、
金峯神社(きんぷじんじゃ)への長い長い坂道。
ゆるやかに見えるけど、結構しんどい。
おやっ!「
修行門」という石標が!(写真右下)
この時、ぜんぜん気づいてませんでした。
この鳥居は、吉野山から山上ケ岳まで4つの門(発心門、修行門、等覚門、妙覚門)の、
二つ目にあたる「
修行門」だったんですねぇ。
道理で、
思いもよらず「修行」みたいな時間を過ごす羽目に…。
(その話は後ほど。)
ただこの時、
「畏れ多くも
修行門をくぐったのだ。」という自覚があれば、
私の心構えもその後の展開も、
少しは違っていただろうに…とちょっと悔やまれます。
坂道を登りきると、
ひっそり佇む
金峯神社の拝殿。
その奥に、本殿へと続く苔むした石段が見えますが、
この場所から本殿の様子を目にすることはできません。
そして、
神社の脇道を少し下った場所に建つ「
義経隠れ塔」。
兄である頼朝に命を狙われ、
追っ手に囲まれた源義経が、
屋根を蹴破って逃げたと伝えられています。
(文治元年 1185年11月)
この窓のない塔は、
修行の場のひとつで、
内部が真っ暗になる造り。
屋根を蹴破る労力もさることながら、
その屋根から逃げることが得策とも思えない。
正直「いや、まさか、ウソでしょ。」って感じですけど、
どうなんでしょう?(笑)
義経は、この時なんとか難を逃れますが、
遠く奥州まで落ちて襲撃され、
33歳 31歳の若さで自害。
(文治5年 1189年4月)
…こうして質素な隠れ塔を目の前にすると、
源義経の必死の逃避行ぶりと、
この吉野の地で涙の別れを余儀なくされた愛しい静御前との
悲しい物語の一端を感じたような気がして、
ちょっとしんみりしました。
女人禁制の吉野山は、
静御前伴ってのこれ以上の逃避叶わず、
しかも、この時静御前は身ごもっていた為、
険しい山道は無理でした。
雪の吉野山で、
二人は再会を誓いますが、
これが永遠の別れとなります。
一人捕えられ引き戻された静御前。
その後、
鎌倉で義経の子を生みますが男の子だったために、
後継となりえるということで、
我が子もすぐに殺されます。
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人が恋しい)
静御前が、義経を慕って詠んだ歌。
さて、次目指すは、
吉野の桜をこよなく愛した西行の侘び住居「
西行庵」。
金峯神社右の長い石畳の坂道をのぼっていきます。
まもなく見えてくる石標には
「
左 西行庵0.2k」の文字。
「あら、たった200メートルなら行きましょうよ」って、
私の前を行く50〜60代くらいの女性グループの内のお一人が、
明るい声でおっしゃってました。
察するところご婦人方は、
6名ほどのグループ行動で、
「西行庵まで行ってみるか、引き返すか。」
どうやら意見が分かれたまま、
何となくここまで来てしまったらしい…。
でも、
この0.2kの石標でようやく「行きましょう」と
めでたく満場一致したご様子でした。
で、その後ろを行く私も、
同じように思いましたよ。
「なんだ200メートルならすぐよねぇ。」って。
しかし、
そこは、
まるで日本昔話の山越え谷越えの世界。
狸や狐に化かされたり、
山姥に追っかけられたり、
空から天狗が舞い降りてきたり、
そんなことが日常茶飯事普通にありそうな、
驚きのめくるめく風景が広がっていたのです…。
私、バスに揺られてお花見気分のまま、
ここまで来てしまったんですけど、
ここってもはや観光地というよりは「登山」ですよね?
気持ちの切り替えができてないんですけど〜。
普段ほとんど平地しか歩いてない。
山登りといえば若草山(標高342m)ぐらいしか経験ない私にとって、
この道は、ほんとにびっくりな展開だったわけで…、
軽く滑って、
谷側にコロンって落ちてしまったら、
全身打撲、複雑骨折、多臓器破裂、
よくわからないけど、
とにかくなんか凄いことになりそうだ。
いや、打ちどころ悪かったら即死かも。
いろんなことが頭を駆け巡ります。
「今ならまだ間に合う。戻るか。」
ただ幅1メートルちょっとほどの細い道ですから、
引き返すにも、
後続の人に迷惑かかりそうで…、
そうこうしているうちに、
前の女性グループのお一人が、
しゃがみこんだまま動けなくなってしまった。
後ろにいた私のことを、
同行のお友達の誰かと勘違いなさっている様子。
「私、高所恐怖症なのよ〜。」
「えぇ〜!」
なんつーか、
パニックって感染するんですね。
つられて私も、急性高所恐怖症状態に。
いつのまにか、
私も一緒にグループの中に、
組み込まれてしまったような団子状態で、
ずるずる腰が引けたような足取りで、
それでも、
足を左右数センチづつでも、
前に出していけば、
否が応でも前進するもので…、
エライ騒ぎの200メートルでしたが、
無事、
西行庵に到着しました。
ここまで来れば、
今までの緊張もフッと緩むような
気持ちの良い広い平地が広がっており、
その片隅にポツンと西行庵が復元されています。
800年昔、
生涯を旅に暮らした歌人西行が、
3年間住んだ場所。
武士としてのエリートコースも、
妻と子も捨て(?)、
突然出家したのは23歳の時。
そのきっかけは、
友人の急死、
あるいは、
高貴な女性への失恋と、
諸説あるようですが、
とにかく軽くググっただけでも、
とても人間臭いエピソードがたくさんヒットしますねぇ。
文武両道でたいそう美形な方だったとか。
西行の人脈を頼りにした東大寺の僧侶 重源から、
「復興のため大仏様の砂金提供を約束してくれた奥州藤原氏に、
早く送るよう伝えて欲しい」との依頼を受け、
40年ぶりに東北へ向ったのは晩年68歳のとき!
(関連過去記事⇒
重源上人の命日 東大寺俊乗堂特別開扉2009.07.08)
この奥州行きの途中、
鎌倉で源頼朝に面会したことが「吾妻鏡」に記されており、
それにまつわる逸話も興味深い。
へぇ〜へぇ〜の連続で、
西行という人に、とても惹きつけられる思いが、
ふつふつと湧いて来ました。
願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ
かの有名なこの歌は、
お釈迦様の悟に憧れていた西行が
「この世の美しさの月と桜の下で、2月15日(釈迦の命日)に死にたい」と、
亡くなる十数年前に、遺言のように詠んだ歌で、
実際ほぼ歌のとおりの2月16日に亡くなったそうです。
終焉の地は、大阪河内の山里の、
役行者が開き行基や空海も修行した弘川寺。
享年73。(建久元年 1190年)
此の歌即ち是れ
如来の真の形体なり
されば一首読み出でては
一体の仏像を造る思いをなし
一句を思ひ続けては
秘密の真言を唱るに同じ
我れ此の歌によりて
法を得ることあり
西行71歳の時、まだ10代半ばだった明恵上人に
それまで誰にも語らなかった歌の秘密を伝えています。


(10:00 → 青根ヶ峰 道に迷ってじゃっかん山中さまよう。)



(8:30 → 「竹林院(ちくりんいん)バス停」バス乗車。※春期、バスはここから発車。)