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元興寺 地蔵会万灯供養


ならまち元興寺の地蔵会万燈供養に、
チラッとお参りしてきました。



本堂の智光曼荼羅の前に地蔵菩薩2体を祀り、
堂内では各地から奉納される書画を貼った献灯揮毫行灯に点火されます。
無病息災を祈願した法要の後境内浮図田にて万燈供養が行なわれます。

奈良市観光協会公式ホームページより引用転載







お皿の上に油と灯芯となる縄が石仏の前に並べらる灯明皿。
(一口1000円)
ゆらゆらと、灯火が風にゆらめき、
幽玄な世界が広がります。





境内では、
屋台や盆踊りなど、
老若男女、家族連れ、浴衣姿の子供たち、
みんな楽しそうに、
そして、
残り少ない夏の日を惜しむように、
それぞれのかけがえのない時を、
慈しんでいるように見えました。





明日24日は、
献灯供養とともに、
奉納演奏もあるとのこと。





元興寺は、猿沢池から徒歩5分ほどの場所。

今夜も、灯籠でくったり寝そべる
ならまちニャンコ トラちゃんのしっぽ。


【関連過去記事】
もうひとつの元興寺2011.05.01
柴燈護摩会(さいとうごまえ)2009.02.03
地蔵盆まんぷく供養夢まつり 2008.08.24






もうひとつの元興寺





奈良時代には、東大寺・興福寺と並ぶ大きなお寺、
南都七大寺のひとつに数えられる
ならまち元興寺

「古都奈良の文化財」として、
世界遺産にも登録されている有名なお寺です。





でも、ならまちには、
元興寺と名乗る寺院が、2つあるってことを
ご存知の方、意外に少ないかも(?)

上の画像は、
世界遺産に登録されているほうの元興寺で、
西大寺の末寺で真言律宗のお寺。
奈良市中院町所在。

そして、
少し南に下がったところにある
もうひとつの元興寺は、
東大寺の末寺。
よって宗派は華厳宗です。
奈良市芝新屋町所在。




もうひとつの元興寺はコチラ↓


この二つの元興寺、もともと一つでした。
平城遷都の際、飛鳥にあったものを、
こちらに運んできたものです。

室町時代の宝徳3年(1451年)、
土一揆のあおりで寺が炎上し、
この頃を境に分裂したのだとか。

南の華厳宗の元興寺には、
分裂する前の奈良時代の五重塔跡があります。

高さ57メートルもあったとされる立派な塔で、
(ちなみに興福寺の五重塔が約50メートル)
江戸時代まで、その天平の姿を残していたそうですが、
残念な事に1859年(安政6)に、
隣の民家の火事で焼失しています。

こちらの画像が五重塔跡。↓

2週間ほど前に撮ったもので、桜がすっかり散ってしまったあとですけど…、
少し前まで、
ソメイヨシノはじめ、
スイセン、チューリップが満開でした。
今は、きっと八重桜が満開なのかな。
牡丹やハルシャギクも咲き始めてるかもしれません。
いつも、さりげなく四季折々のお花が咲いている丹念に手入れされた空間です。

時間が止まったような静かな境内には、
現在、17個の礎石が残る塔跡と、
観音堂の跡に建てられた本堂があります。



昨年、修復された「啼灯籠」(なきとうろう)。↓
昭和19年の震災で無惨に倒壊したままだった灯籠が、
平成22年、66年ぶりに元の姿に戻されたそうです。
「どうして泣き灯籠なのか?」
灯籠の横に解説板が設置されていますよ。笑



もとは一つだった奈良時代の元興寺は、
五重塔跡からも察しがつく通り、
それはそれは立派な伽藍だったようです。

南大門、中門、金堂(本尊は弥勒仏)、
講堂、鐘堂、食堂(じきどう)が、
南北に一直線に並び、
中門左右から伸びた回廊が金堂を囲み、
講堂の左右に達していた。
回廊の外側、
東には五重塔を中心とする東塔院、
西には小塔院があったとのこと。
(参考 Wiki



※元興寺に設置されている解説板を参考に作成

見事な伽藍をほこった名刹 元興寺も、
平安京に遷都されたあとは次第に衰え、
平安時代中期以降には、
破損・衰退のすさまじさが記録されています。

さらに近世に入ると、
昔の伽藍地に民家がびっしり建ち並び、
江戸時代以後、
奈良町の中枢の一角となりました。

近年、
この元興寺を中心とする町屋が残るエリアは、
ならまちと称する観光スポットとして、
賑わうようになりました。

(参考図書 ドラマチック奈良 昔むかしをつぶさに歩く
小倉つき子
地方・小出版流通センター/京阪奈情報教育出版)



こちらの南の元興寺のあたりの町並みは、
テレビドラマ「鹿男あをによし」の、
下宿先として使われていました。



元興寺を詠んだ句

虫鳴くや 七堂伽藍 なにもなし  正岡子規

みみず鳴く あたりもかつて 大伽藍  阿波野青畝

初冬や 唐辛子干す 塔の跡  松瀬青々




【関連過去記事】
⇒すぐお隣 御霊神社 2011.04.20
⇒北の元興寺 柴燈護摩会(さいとうごまえ)2009.02.03
⇒北の元興寺 地蔵盆まんぷく供養夢まつり 2008.08.24






町の風景と命をかけたミッション遂行


夕方、少し散歩しました。







ただ歩いているだけなのに、
心が鎮まる…。
いつものと変わらぬ、
奈良時間が流れています。
















散歩から帰宅後、
連休の初日だったということに気づき、
そして、
今、
東京消防庁の会見にただひたすら感動してます。
(支離滅裂)



福島原発へ向かう、
東京消防庁のハイパーレスキュー隊139人
リーダーの訓示。
「国運がかかっております。」 







東京消防庁放水「恐怖心を克服、プールに命中」
会見に出席したのは、現場に行ったハイパーレスキュー隊の冨岡豊彦(47)、高山幸夫(54)の両隊長ら。オレンジ色の作業服姿に黒いブーツを履いた冨岡隊長は大変だったことを尋ねられると、「隊員の士気が高いので……」と切り出し、絶句。しばらく声を詰まらせた後、「家族ですね。本当に申し訳ない。この場でおわびとお礼を申しあげたい」と唇を震わせながら目に涙を浮かべた。
高山隊長は、「(放射能という)目に見えない敵との戦いだった。短い時間で活動を終了するのが大変だった。仲間のバックアップがあったから良かった」と話した。
(中略)
2度の活動に従事した約50人のうち、最も被曝(ひばく)量が多かった隊員は約27ミリ・シーベルトで、14〜15ミリ・シーベルトが3人、10ミリ・シーベルト以下が45人いた。同庁は原子力災害の現場での被曝量の基準を30ミリ・シーベルトと設定しており、佐藤総隊長は「基準を満たすことができた。放射能の危険を熟知しているので、恐怖心を克服できた」と述べた。活動には、本人が承諾したハイパーレスキュー隊員を充てた。

(2011年3月20日01時28分 読売新聞)
より引用転載



被曝覚悟の350メートル 消防隊見守る妻「日本の救世主に」2011.3.20 01:19 (2/2ページ)
「危険度を熟知する隊員の恐怖心は計り知れないが、拒否する者はいなかった」(東京消防庁の佐藤康雄警防部長)。だが、防護服の着用に普段の3倍以上の時間がかかるなど、緊張の色を隠せなかった。【放射能漏れ】被曝覚悟の350メートル 消防隊見守る妻「日本の救世主に」+(2-2ページ) - MSN産経ニュースより引用転載


東京消防庁の会見
危険なミッション遂行のために、
どれだけ考え抜かれたか…が伝わってくる、
陣頭指揮をとる指揮官の活動報告の記者会見





泣きました。カッコいい。




江川紹子さんの記者会見をまとめたつぶやき(わかりやすいです)⇒http://togetter.com/li/113727









紀寺の交差点から猿沢池あたり


ならまち紀寺町の交差点からみた西の空。
こんなシアンブルーではなかったと思うのですが…(^_^;)
(新しいデジカメ欲しいなぁ。)





そして、東の空。
春日山、そして南に続く高円山(たかまどやま)
今朝は、大きな雲が居座っていました。




ならまちの元興寺 南に位置する紀寺町は、
その名の通り、
昔、「紀寺(きてら)」という大きな大きなお寺があったところ。

1300年前の平城遷都のとき、
飛鳥の法興寺(飛鳥寺)が「元興寺」として平城京に移され、
ならまちは、平城の「飛鳥」と呼ばれていました。

現在も、このすぐ近くに
「飛鳥小学校」があり、
その名残を留めています。

かつてこの界隈に存在していた「紀寺」という大きなお寺も、
藤原京から移ってきたそうです。
(参考「橿原市文化財ー飛鳥〜奈良時代」)





故郷(ふるさと)の飛鳥(あすか)はあれどあをによし平城(なら)の明日香(あすか)を見らくし好しも
大伴坂上郎女(万葉集 巻6-992)

建造物が一緒に移ってきたとしても、
目に映る山々の風景は、かなり違ったでしょうから、
奈良の都、新しい土地に馴染むまで、
飛鳥を恋しく感じたんでしょうねぇ。







ならまちを抜けて、
猿沢池。

朝方は、
同じく大きな雲に覆われて、
どんより曇っていました。





北西半分くらいは、
うっすら、
薄氷が張ってます。






でも、
猿沢池の七不思議
「澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が七分に水三分」
に反して、
今朝は、
澄んでました。

これは、べつに珍しいことでもなく、
こうして、
しょっちゅう池をみてると、
時々、澄んでるんですよねぇ。笑






冬眠中の亀さんたち居ないかなぁ…って、
池底を凝視してみたのですが、
見当たらず。

土の下にもぐっているんでしょうか。

そして、
トラちゃんとお友達にゃんこ達とも会えず。(-.-)






雨上がりのお散歩


午後から降り始めた雨がやんだとき、
若草山に、虹がかかったそうです。

残念ながら、
私は見逃してしまいましたが…、

でも、その前の雷雨の時、
5分ほど停電して、
仕事の手を止めざるをえなくなったとき、

南の空に走るイナズマを、
いっぱい見ました。

雷小僧が暴れ回っているのかなぁ〜、
虎模様のパンツはいてるんだろうなぁ〜、
とか、ぼんやり
思いながら。

そして、
雨のおかげで、
しっとり、
しのぎやすくなった夕暮れ、
ならまち界隈をお散歩しました。















































元の木阿弥


モスバーガーのコーヒーが結構好きです。

こう書くと、なんだか、私、
ファーストフード店ばかり利用しているみたいですけど、
マクドナルドは無線LANが利用できるし、
モスバーガーは通りの景色が眺められるから。

(…誰に向かって言い訳してるんだか。)



それで、

その三条通りのモスバーガー店内から見える隼神社(はやぶさじんじゃ)。

隼神社に、角振明神がまつられていることから、
この界隈角振町との地名になったそうです。
もとは率川(いさがわ)神社の境内の大きな鳥居の跡だったとのこと。



奈良に越してきたばかりの頃、
こちらの隼神社の鳥居が、
いわゆる黄色味をおびたではなく、
(当時は、)に近い色目だったので、
たいへん不思議な印象を受けました。

あれからずいぶん経ちますが、
の真意は謎のままです。
といっても、
別に積極的に調べたわけでもないんですけど。
(特に、深い意味もないのかもしれません。)


中街道
角振町からっ椿井、東城戸、南城戸…
京終(きょうばて)町につづく道路を中街道と呼ばれている。
上街道、下街道とともに大和盆地を南北に通ずる需要産業道路として県道に指定された
江戸時代から明治、大正、昭和の初期まで豪商が軒をならべていたところである。






ところで、

いきなり話が飛ぶようですが、

いったん良い状態になったものが、元の状態に戻ること「元の木阿弥」という故事がありますが、

そのモデルである琵琶法師の木阿弥さんの住まいが、

この隼神社近辺だったそうです。


大和国の戦国大名の筒井順昭(つついじゅんしょう)は、
亡くなる直前、
「隼神社近くに住んでいる盲目の琵琶法師が自分と瓜二つなので、
 彼を替え玉とし自分の死を秘するように」と、
敵を欺くための作戦を命じます。

突然、白羽の矢が立った木阿弥は、
青天の霹靂、
大名の身代わりの間、
たいへん贅沢な暮しを享受しました。
いわゆる「棚ボタ」状態ですね。

が、しかし当然のことながら、
筒井家が体制を整えなおし、順昭の死を公にした後は、
奈良へ帰され、元の身分に逆戻りします。

このことから、
「元の木阿弥」という故事が、
生まれたそうな…。



なんだか…、木阿弥さん、
人生狂わされたと言いましょうか…、
ある日突然替え玉に利用され、
用が済んだら「ハイさよなら」とは、
えらい迷惑こうむっていますよねぇ。

戦国時代とは、
人が戦略の駒扱いになってしまうような、
一事が万事そういう時代だったのかもしれません。


さて、
未来から見た今の日本は、
どんな時代に見えるのかな。



参考:戦国大名 筒井順昭wikipedia











雨の朝の発見


本日は、梅雨空。

ポツポツ降ってます。






どこかへと足早に急ぐ、トラちゃん。

いつものように、きっぱり無視されつつも、私は、君にあえて嬉しいよ。






そんな朝、今さらながら、

今御門商店街」の、「奈良町通り」の看板に気づきました。

へぇ〜、ここ 奈良町通り なんだぁ。



名勝興福寺猿沢池に隣接する今御門商店街は、風情あふれる町並みが有り、昔をよびおこす心が有ります。
社団法人奈良市商店街振興会HPより引用転載



そんな矢先、

ならまちセンター近くから元興寺方面へと続く道の「鶴福商店会」の看板。 

こちらは、ひらがなで「ならまち通り」記されています。

へぇ〜、ここはひらがなの ならまち通り なんだぁ。





発見だらけの朝でした。(笑)



ならまちで見かけたつやつやの椿の実。

この実から、あの椿油が採れるのですねぇ。
(椿の実4升で,1升分の椿油が取れるそうです。)







庚申(こうしん)さん


引き続き、ならまちの話題を…。



ならまちの家の軒下に吊るされている身代わり猿は、
魔除けのお守りで、
民間信仰「庚申講(こうしんこう)」の名残りと言われています。



ならまちの庚申(こうしん)信仰は、
中国の道教からはじまったとされ、
奈良時代末期に日本に伝わり、
その後日本固有の信仰と融合しながら発達しました。

(そういえば、数年前、
この身代わり猿と同じお守りが、敦煌(とんこう)の洞窟でも発見され話題を呼びました。)



仏教道教の大きな違い…、

それは、
仏教が、あの世である極楽往生を説くのに対し、
道教は、今、生きているこの現世の利益を叶えられるのだとか…。


・・・?

なんか、わかったような、わからないような。(笑)
たとえば、私なんかは、
「宝くじが当たりますように」などという現世の利益ばかり、
(むしのいい願いごとや、苦しいときの神頼みとか、)
しょっちゅうですが、
それは、本来道教ご担当の分野だったってことなのかも…?






「干支(かんし、えと)」すなわち「十干(じっかん)」・「十二支(じゅうにし)」の組み合わせの一つである。十干とは、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)である。また十二支とは、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)であり、干支は都合60通りの組み合わせで表される。Wikipedia


それで、

60日に1日巡ってくる庚申の夜にできた子は、
盗人になるという言い伝えまであるそうです。

悪事にも、多種多様あると思うのですが、
盗み限定ってところが、なんだか生々しくも極端な感じ?(笑)







そこで、
庚申生まれの子は、
盗人にならないようにと、
「金」の字が入った名前をつけることで、
厄除けにしたそうです。





かの有名な「我輩は猫である」の夏目漱石は、
慶応3年1月5日の庚申生まれで、ご本名金之助さんです。

金之助という名前は、生まれた日が庚申の日(この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。
Wikipedia

実際のところは、盗人どころか、
お札の肖像にまでなっていらっしゃるのですから、
ご本名金之助の名前の威力(?)は絶大ですね。











身代わり猿は、
こちらの奈良町資料館で入手可能です。
↓↓↓
奈良町資料館HP




そもそもならまち とは?
↓↓↓
奈良町またはならまちは、奈良県奈良市の現市街地南に広がる伝統建築群地域の通称(「奈良町」という行政地名はない)。狭い街路に、江戸時代以降の町屋が数多く建ち並ぶ。ほぼ全域が元興寺の旧境内にあたる。
Wikipedia






陰陽町(いんようちょう)


先日の週末の夕方…。

その時の私は、なんだか落ち着かない気持ちで、
ならまち界隈を、
速足で通り過ぎようとしていました。

いくつか雑用が重なって、
ちょっとイライラ気味だった。
とにかく用事を片づける段取りばかりが
頭を支配していて…、

そんなさなか、
ふと、
誰かの視線を感じたような気がして、
足を止めてみたこの場所…。



陰陽町(いんようちょう)の鎮宅霊符(ちんたくれいふ)神社。



思わず、土塀の中に吸い寄せられて…、

「あ・うん」の二対の狛犬さんにご挨拶。





「どんぐりまなこの狛犬さんたち…」





天真爛漫な笑顔に、
思わず、お声をかけてみたくなり、

ひとり神社で、

「こんにちは。お久しぶりです。」と、つぶやいてみたら、

焦っていた心に、スゥーっと、
風が吹き抜けたような、
清々しい気持ちになって、

なんだか、救われました。




※以下、過去記事より再掲載

こちらのひょうきんな狛犬さんたちが鎮座するのは、
奈良町陰陽町にある「鎮宅霊符(ちんたくれいふ)神社」。

陰陽師(おんみょうじ)の神とされている神社だそうです。



陰陽師 とは、その昔、
庶民の暮らしの指針となる暦(こよみ)をつくっていた者たちで、

江戸時代の最盛期の頃には、
この界隈に、十数件の暦師が住んでいたそうです。



細いゆるやかな坂道の町並みは、しっとり落ち着いた風情。
このあたりの人たちは、「いんよう」ではなく、
「いんぎょうまち」と呼ぶのだとか。

お天気の良い日は、
奈良町の古い町並みのあいだから、
遠くうっすら見渡せる生駒山が美しいです。




参考文献「これが奈良町」奈良町資料館編集部 発行




ならまちの町名をピックアップしてみました。

陰陽町(いんようちょう)
 陰陽師(おんみょうじ)が集まって易占いや暦作りをしていたところ
 平城京の時代から、お祓いや法要の営みの指示をしていた陰陽師(おんみょうじ)は、
 古代中国から伝わる陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)に基づいて、占いを行う者のこと。

瓦堂町(かわらどうちょう)
 瓦店が軒を連ねていたところ

椿井町(つばいちょう)
 かつて元興寺の行灯に使う椿油を造る職人が住んでいたところ

草小路町(くさこうじちょう)
 あたり一面が草原だったところ

築地之内町(つじのうちちょう)
 元興寺の東側の築地(ついじ)塀があったところ

また、奈良町は、元興寺の境内だったところに町ができたため、
元興寺にちなむ町名をもつ町が多いです。
こちら↓↓↓の町名は、元興寺の別院があったところ。

・十輪院町(じゅうりいんちょう)
・納院町(のういんちょう)
・中院町(ちゅういんちょう)


参考:学研グラフィック百科」日本の町並み


【関連過去記事】
奈良町の花街
私財投げうって造った嶋嘉橋






清々しい朝の素通り





あまねく光が降り注ぐ清々しい朝でした。

素通りしただけでしたけど…。(遊覧体験したかったなぁ。)






















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奈良市在住10年目の一般奈良市民が、何気ない普段の奈良の日々をつづった趣味ブログです。
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