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玄掘覆欧鵑椶Α冒と、おススメ奈良本


あのう…、
昨日の記事で、
私の勝手な僧玄靴量兪曠ぅ薀好箸鯢舛い討靴泙辰燭里任垢…、↓↓↓



その後、興福寺に、鎌倉時代の玄形が安置されていることを知り、
穴があったら入りたい気分になってます。(-_-;)

興福寺HP→木造法相六祖坐像(もくぞうほつそうろくそざぞう)

私が勝手に思い描いたイメージとは似ても似つかないストイックなお姿でした。(またもや雑なイラストで恐縮ですが。)



玄(げんぼう)像84.8cm 鎌倉時代・興福寺南円堂 (国宝) 桧材 寄木造 彩色 玉眼



興福寺に、玄形が安置されていることを
私に教えてくれた書籍はコチラのシリーズ↓↓↓


むちゃくちゃ詳しい奈良町情報が満載、しかもとってもわかりやすいです。

6〜7年ほど前(?)に、購入して以来、
何度も読んでは、奈良の街を歩いたものでした…、

が、
今回、久しぶりにパラパラめくってみると、
玄靴里海箸実に詳しく記載されているではありませんかっ!

ぜんぶ目を通したはずの本なのに、
まったく記憶に残っていなかった自分にあ然としつつ、
(ま、ここ数年ありがちな現象なんですけど。)
改めて新鮮な思いで、こんな深夜まで読みふけってしまいました。

ところで、
上の冊子(合計4冊)が、このほど「西ノ京」情報も加筆され、
一冊にまとまって出版されています。

私、本屋さんで見つけた時には即買いでした。(笑)



とにかく「えっ?そうだったの!へぇ〜」と、
驚く情報満載です〜。

たとえば、

奈良町の元興寺旧境内の東南の端に建つはあの有名な寺院は、
吉備真備(きびのまきび)が、遣唐使として唐にわたっていたときに、
親しくなった女性との間に生まれた子が、海を渡って日本にきて創建した…とか、

ひらがなの「ならまち」と、漢字の「奈良町」の違い…とか、

高畑町は、興福寺の五重塔のてっぺんと同じ標高…とか、

破石町「破石」の伝説と、現存するその石の場所…とか、

元興寺境内の「カエル石」淀君の霊の話…とか、

奈良の恩人、川路 聖謨(かわじ としあきら)の話…とか、
(サクラだけでなくカエデも植えていたんですねぇ!)

他にも、
何も知らなければ素通りしてしまうようなお地蔵様に伝わるお話…、
伝説、言い伝えの数々・驚きの真実 etc.

こちらの本を読んで、
奈良の街を歩くと何十倍も世界が広がりますよ。

ドラマチック奈良―昔むかしをつぶさに歩く
新薬師寺 小倉つき子 著 
ならフィールド発行 京阪奈情報教育出版 発売 1,260円






雨の福智院と玄


大きなお地蔵様がいらっしゃるならまち福智院
公式HPコチラ

(げんぼう)が、
地蔵菩薩を本尊に「奈良清水寺」として開いたとされ、
一時は、廃寺となり、
1254年、西大寺の叡尊(えいそん)上人が再建したそうです。



本尊は、地蔵菩薩(重文)で、
高さ3メートル近くもある大きな坐像。
二重になっている光背は、
内側に6地蔵、
外側に光背がついた560の化仏が隙間なくならんでいます。

六地蔵と化仏と本尊を合わすと全部で567体になり、
釈迦入滅後56億7千万年後に現れる…という、
弥勒信仰に付号するそうです!

(参考図書 ドラマチック奈良 小倉つき子著 京阪奈情報教育出版)














実は、ならまちの福智院を開いたのが、だと知ったのはつい最近。

このあたりは、よくお散歩する心落ち着く場所ですし、
多分、何度となく、
読んだり聞いたりはしていたのだと思いますが、
に関する知識が皆無だった私は、
ずっと「右から左」だったようで…。
(自分にとって馴染みが薄いものって、いとも簡単にスルーしてしまうものですね。)

それが、
ちょっと前のNHKドラマ「大仏開眼」で、
吉備真備(きびのまきび)とともに唐から帰国した僧玄肪の、
野望にまみれた姿が印象的で…、

以降、がぜん私の中で、
ミステリアスな人物として注目するようになり、
そんな矢先(改めて)福智院を開いたのが、
だと知った次第です。

とにかく奇怪な伝承がついてまわる僧

本当のところは、
いったいどんな人物だったのだろうか…と、
今じゃすっかり気になる存在に!



玄掘覆欧鵑椶Α縫廛蹈侫ール

■生年不詳
■717年(養老元年)遣唐使に学問僧として随行。
 唐にて法相を学ぶ。
■735年(天平7年) 次回の遣唐使に随い経論5000巻の一切経を携えて帰国。
■736年(天平8年) 封戸(ふこ 貴族に対する封禄制度の一つ)を与えられる。
■737年(天平9年) 聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷により回復させる。
 吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世。
■740年(天平12年)藤原広嗣が玄靴鯒喀しようと九州で兵を起こす(藤原広嗣の乱)。
 →藤原広嗣は官軍によって鎮圧される。
■741年(天平13年)千手経1000巻を書写供養。
■745年(天平17年)藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収される。
■746年(天平18年)任地で没する。
Wikipedia


まず史書である『続日本紀』の彼の卒伝に、藤原広嗣が霊の為に害せらる」とあり、
当時広嗣の怨霊によって彼が死んだとの考えがあったことが知られる。
これが後世の書物になると話があらぬ方向に広がっていく。
『元亨釈書』には、空中から手があらわれて玄靴鯱△豕遒蝓後日、頭のみが興福寺に落ちており、これが広嗣の霊のせいであったという記事がある。
『元亨釈書』には、「藤室と通ず」(藤原氏の妻と関係を持った)とあり、これは藤原宮子のことと思われる。宮子との密通の話は『興福寺流記』『日本霊異記』『七大寺年表』『扶桑略記』などにもみえる。
『今昔物語集』『源平盛衰記』には、光明皇后と密通し、それを広嗣に見咎められたことが乱の遠因になったとしている。 もちろん、いずれも後世の史料であり信用する必然性はとぼしい。やはり早くから破戒僧と信じられていた道鏡と混同された形跡もみられる。しかし、『日本霊異記』に早くも密通記事がみえていることからみて、
玄靴留秒が妬まれたこと、またそこに宮子との関係を想像した人もいたこと、
さらには彼の没落と死去が広嗣の怨霊と結びつける理解のあったことは認められるだろう。

Wikipedia


何にせよ、
吉備真備と肩をならべる優れた人物だったことに、
間違いはありません。


福智院では、毎年6月18日、
玄肪の無念の死を悼み、また功績を顕状するために、
福智院頭塔玄肪忌を行っているそうです。

頭塔(ずとう)は、
福智院の近く、高畑町にあるピラミッド状の構造をした土製の塔。
九州にて無念の死をとげた玄靴が、
奈良に帰ってきて、この場所に落ちたとされる場所。

ちなみにJR京終の近くの肘塚町(かいのつかちょう )は、
玄肪のが落ちてきた場所なんだとか。


【関連記事】
玄掘覆欧鵑椶Α冒と、おススメ奈良本(※玄肪イラスト修正しました。



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奈良市在住10年目の一般奈良市民が、何気ない普段の奈良の日々をつづった趣味ブログです。
美しい自然と、奈良公園の鹿・猿沢池の亀・奈良町ニャンコ達に挨拶する毎日に感謝。
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